『学び合い』

 今日は素晴らしいことが起こりました。私は今年度、上越教育大学教授西川純氏の提唱している『学び合い』を参考にして、主体的・協働的な授業を行っています。これまでは学級の全員が課題を達成できることが一度もなかったのですが、今日初めて一つのクラスで全員が課題を達成することができたのです。
 単元は「生き物の記録する科学」(光村図書2年)を使ったもの。内容の読み取りや、要約、筆者の主張にかんする4つの問題を提示し、それに対する自分の答えを理由を重視してクラスメート3名に説明し、サインをもらったら合格というものです。
 最後の5分まで問題3の段階でどうしても4に進めない生徒が一人いました。そこからの子どもたちがすごかった。必死に説明を聞きに行く子。説明するのをフォローする子。静かに遠くから見守る子。それぞれがそれぞれの方法で、最後の一人の子を応援していました。そして1分前についに4の問題もクリアできたのです。みんな満足そうな顔をしていました。
 ここまで授業数にしてわずか2時間。1時間目は問題を示し、私が本文を音読しました。そして今日の『学び合い』の時間はわずか25分間です。とても自分の一斉授業ではできません。子どもたちの学ぶ力の奥深さを改めて実感した授業になりました。

目標を明確にすること その2

 例えば、各学校には「学校教育目標」や「めざす生徒像」があると思います。その目標や生徒像は、今目の前の子どもたちが10年後、20年後を生きていく力を育成できるものになっているでしょうか。
 また、その生徒像にそぐわない子どものことが考えられているでしょうか。どうして学校が決めた理想の姿に近づこうとしないといけないのでしょうか?
 私たち指導者は、子どもたち全員に「学校教育目標」を達成させ、「めざす生徒像」どおりの子どもになることを目標に日々の指導を行わなくてはならないのでしょうか。それは戦争に向かってひた走る、軍国主義下の学校と何が違うのでしょうか。

目標を明確にすること

 この職業を始めてから、ずっと指導には明確な目標(目指すべき姿や身に付けるべき能力)があり、それを基に単元や授業は作られるべきだと教わってきました。指導案を書くにしても、研究授業のリフレクションにしてもその点が常に話題に上がっていました。
 しかし最近この考え方に疑問を持っています。単元や授業を作るのに、もっと言ってしまえば子どもが学びを生み出すのに、明確な目標は必要でしょうか?それが必要だと思うのは、指導者側の都合ではないでしょうか?目標に沿った学び方で、これから(現在)の社会に必要な「生きぬく力」は身に付くでしょうか?
 この疑問は自分の中で、複雑で多岐にわたるとても大きな問題につながっています。しばらく書き続けてみようと思います。

ネットモラル

 先日本校で、ネットモラル講習会なるものが行われました。警察のサイバーパトロールなんかをしている方が講師としていらっしゃり、子どもにネットの危険性を話していただきました。自分も5〜6年前、市の研究でこの分野の研究に関わったことがあるからなのかも知れませんが、子どもをネットの危険から守る方法って恐怖で脅す以外にないのでしょうか。さすがに講師の先生は経験豊かで、悲惨な事例をこれでもか、これでもかと提示していらっしゃいました。それはそれで、分かるのですが、子どもは「そんなに危険なら、近づくのを辞めよう」と思ってしまわないでしょうか。それは問題の先送りに過ぎません。むしろ今のうちに小さな失敗をしておく方が、大人になって取り返しのつかない失敗をするよりましだと思います。
 この問題の原因はいくつかあると思いますが、一つは子どもより大人のリテラシーが低いという点だと思います。大人は自分が分からないことを子どもがしているのは怖いので、あらかじめ恐怖や権力によって封じ込めようとする、ということです。でも子どもが成長して実際に出て行く社会は、ネットが必須の世の中です。大人側の都合で、問題の先送りをするのは得策ではありません。
 もう一つは、ネットの危険が「ネット」ならではの危険だと思われていることです。電子メールが登場すれば、電子メールの危険を教える講習がたくさん行われました。プロフが危険だと言われればプロフの、Twitterなら、LINEならといたちごっこでキリがありません。それらの講習では、「なぜそのような危険なことが起こるのか」についてはあまり教えてもらえないのです。ツールはツールです。もともと危険なツールというものはほとんどありません(そんなものはもともと普及しませんから)。危険にしているのは、そのツールを使う人間です。どんな心理で、何が不足しているから危険になってしまうのか。その点においては、どのネットワーキングツールでも同じところに原因がある気がしています。それは「相手を思う」ということです。言うまでもなく、それは「ネット」だからではありません。どんな場合にも大切なことです。その1点を常に意識して指導していけば、現在起きているほとんどのネットトラブルは解決できるのではないか、と思います。

協同性が育まれてきた

 このブログを他のサイトで紹介したところ、いいね!がついたので、見て下さっている方がいるのだと知り、更新せねばと思う今日この頃……。考えていることはたくさんあるのだけど、文字に起こすのが苦手な国語教師です。
 さて、現場に戻ってはや2ヶ月が経ちました。今年度は全ての単元を協働的な活動で構成しています。指導者の僕はほとんど何も教えていません。はじめは不安そうだった学習者も、さすがにそろそろ慣れて(あきらめて?)この授業形式に順応してきました。順応する順番が、得点のとれる順でないのが面白い。おそらく今までの授業方式では、褒めちぎられ、高得点をとれていた学習者でも、いつまでも拒否反応を示す子がいる。一方でこの方式になってから、おそらく今まで得点はとれなかったであろう学習者の中に、非常に生き生きと活動する学習者がいる。これは何に依るのだろうか。このような力を言語化し、対象として育てられるようにすることが当面の目的かな。
 学習者の一つ一つの反応に、一喜一憂するのではなく長い視点から反応を見つめていきたい。

『学校でしなやかに生きるということ』

 また、すごい本に出会った。『学校でしなやかに生きるということ』(石川晋 フェミックス)だ。本の中でも触れられているが、教師には一度は「学校を外から見る」経験が必須だと思う。自分の場合は、昨年度までの長期研修がそれにあたる。一度でも「学校を外から見る」経験をした人は、似たような感覚を抱くのかも知れない。まだまだやれることはあるな、と勇気づけられた一冊だった。とにかく「学校を子どもたちの手に取り戻させたい」、自分が願うのはそれだと思う。

第1単元

 現場復帰しました。授業も始まり、なかなか楽しいです。以前はつらいと感じていたプレッシャーも楽しめるようになっていました。さて、今年度は2年生の授業を受け持ちます。最初の単元は「学習指導要領を協働的に読む」でした。学習者はどうして自分たちが学ぶべきことを知らずに、1年間授業を受けなければならないのでしょうか。案の定「こんなもの(指導要領のこと)があったなんていままで知らなかった」「今年身に付けるべきことがよくわかって、これから注意して授業を受けようと思った」という感想が聞かれました。中学二年生は、もう十分学習指導要領を読めますよ。もちろん一人では無理です。教師が解説しても無理です。仲間と協働しながら読まなければ、本当の理解は得られません。